フィンセントという名の画家について思うこと

お久しぶりです。総務の渡邉です。

突然ですが、フィンセントという名の画家について
長々と書かせて頂きます。

 

彼は1853年に牧師の息子として生まれました。

1869年画廊に就職するも7年後に解雇され、教師、書店員と職を転々とします。

翌年、牧師を志すも、神学部の受験に挫折。

1878年に伝道師(キリスト教の布教者で正教師の資格を持たない)養成学校に入学し、とある炭坑町で伝道活動を始めました。

そして、2年後の1880年に画家となることを決意。

約10年の画家としての活動期間の間に、2,100枚以上の作品を残しているが、生前に売れた絵はたったの1枚のみだったと言われています。
(他に売れた作品があるとする説もある)

1889年に精神病療養所に入院。

療養の傍ら制作を続けたが、ピストルで自殺を図り(諸説あり)、その2日後に弟に看取られて37歳で死去・・・

とにかく画いた絵が売れない。
10年間画家をやっていて売れた絵が一枚だけ。
(冒頭の「赤い葡萄畑」になります。ちなみに購入したのは彼のお姉さんだそうです)

彼の経歴だけを見ると、画家として成功したとはとても思えません。
周囲の風当たりも厳しかったと思うのですが、良く筆を折らずに続けられたものです。

私は思います。
彼は画家として成功者だったのかと・・・

先日、私は東京都美術館で開催されている彼の作品の展示会に行って来ました。

展示されていたのは、彼の作品に魅了され、その世界最大の個人収集家となったヘレーネ・クレラー=ミュラーのコレクションの一部です。

彼女は、鉄鉱業と海運業で財をなした夫とともに彼の90点を超える油彩画と約180点の素描・版画を収集し、その感動を多くの人々に伝えるべく、生涯にわたり美術館の設立に情熱を注ぎました。

残念なことに、彼女が彼の作品を評価し購入し始めたのは、彼の死後のこと。
彼は自分の作品が世に知られ評価されたことは知らずに亡くなった訳です。

もし、彼の作品がもっと早く評価されていれば彼の人生も変わったかもしれません。

現在では、彼はもっとも有名な画家のひとりに挙げられる程の人気と知名度を誇っていますから、何とも皮肉なものです。

画家自身の死後にその作品が評価されることは決して珍しいことでありません。

作品が認められるようになったのは、勿論、彼の作品のすばらしさに依ることは間違いありませんが、その作品群が評価された事には、彼の作品のコレクター(ヘレーネ・クレラー=ミュラー等)や彼の弟とその妻等の存在が大きかったと思います。

何しろ彼の弟は画商として彼を生涯支え続けただけではなく、その(売れない)作品群を処分することなく、展覧会を開いて彼の作品を世に知ってもらう為の努力を続けました。

弟の死後はその妻が意思を受け継ぎ、展覧会だけではなく画商に絵をアピールしたりして、作品を世に紹介する努力を重ね続けたそうです。

そういった人達の努力のお陰で、ようやく彼の作品は評価されるようになり、その名は全世界に広まりました。

死後130年経った今でも生まれ故郷のオランダから遠く離れた日本で彼の作品が見られる訳です。

後世の我々には、間違いなく彼は成功した画家だと断言できると思います。
当時売れなかった作品が、近年になって何十億円~1※※億円と取引されています。

しかし、画家本人はそれを知る事なく亡くなりました。

一向に作品が評価されず、悩み・苦しみながら自身の表現手法を貫き描き続けたからこそ、現在までの彼への評価があるとしたら、何とも言えない複雑な気持ちになってしまいます。

今回彼の展示会で私が感じたことは、

一人の成功者の誕生の陰には、名前の残らないたくさんの協力者達の存在があってのことだということです。

私は思います。
彼は画家として成功者だったと・・・

作品だけではなく、彼自身の信奉者を世に残せたことを。

ちなみに私の好きな彼の作品ですが、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの「白薔薇」です。

 

 

 

 

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