米百俵(こめひゃっぴょう)

お久しぶりです。
総務課の渡邉です。

つい最近、ニュース番組を見ていて、ふと「米百票」という言葉を思い出しました。

米百俵(こめひゃっぴょう)は、幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩(現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩)の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事になります。
この逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語として引用されておりまして、私自身も小学生の道徳の教科書で読んだことがあります。
(40年近くも前の事ですが奇跡的に私の記憶に残っていました)

どんな話かといいますと・・・

北越戦争(戊辰戦争の一つ)で敗れた長岡藩は、石高が7万4000石から2万4000石に減らされ、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食事にも苦慮する状態になったそうです。
そんな中、窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなりました。
藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだのですが、
藩の大参事(現在の副知事、幕藩体制における家老に相当、つまりかなり偉い方)である小林虎三郎という人は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却してお金に換え、学校設立の費用とすることを決定しました。
お腹が満たされると喜んでいた藩士たちは当然この決定に驚き反発して小林虎三郎のもとへと押しかけ猛抗議したのです。それに対し小林虎三郎は、

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

と諭し、自らの政策を押しきったのです。
この米百俵の売却金によって開校したのが「国漢学校」になります。
この学校は士族によって建てられた学校でしたが、一定の学力に達した庶民の入学も許可されていたそうです。
以来この国漢学校は、漢学、国学のほか、洋学局や医学局も設置され、長岡の近代化に大きく貢献しました・・・と

とまあ、こんな感じの内容だったと思います。

正しい答えは誰にも分かりません。
小林虎三郎の取った判断が正しかったかも分かりません。
遠い未来の人間が判断することだと思います。

ただ、一つ言えるのは、小林虎三郎という人は、未来を見据え、周りから反対される中で決断し、実行したということです。
なかなか出来ることではありません。

現代に生きる私達はどうなのでしょうか?

ちなみに、新潟県長岡市街を貫くメインストリート、大手通の角地には記念碑「米百俵之碑」があります。

カテゴリー: 日常, 総務   パーマリンク

コメントは受け付けていません。